2013年2月26日火曜日

ロベール・ドアノー





バタバタしている合間を縫って、
写真展に行ってきました。



ロベール・ドアノー



写真についてまだ全然詳しくないし
彼の事も知らなかったのですが、
チケットをもらったので
そして今の私に必要なものだと思ったので
最終日に滑り込みでいってきたのです。


 そもそも写真に興味がなく、撮る人によって違うというのも
いまいちピンときてなかった。


無機質な記録写真ではない写真に興味を持ち始めた最初は
もしかしたらフジコのCDジャケット制作のときかもしれない。



その後、ひょんなことから、
とあるロックバンドの写真係として
彼らのライブやオフの写真を撮るようになりました。



そこで心の風景と見た風景を重ねる作業から
他人の表情を切り取ることにも興味を持ちました。
(正直、彼らの写真を撮るときはプロモーション的なことも視野に入れてしまうので
純粋に「人間を撮る」という行為から離れたものも多いですが)



絵を描くこと、音楽をすることの共通点と同じように、
写真もおなじようなことができるんだ、と気づいた瞬間。



「展覧会」は、毎回思うけど
今回もやっぱり行ってよかった。



1930年代から活躍し始めた彼の写真は、
パリ郊外、そしてパリの風景を切り取ったもの。


私が行ったことある場所も写ってた。



 彼の撮った写真は
時代を写し、彼のまなざしを封じ込めたようなもの。


ほぼ白黒写真ですが、
時代が変わり、
景色が変わり、
彼の愛した景色が過去のものとなった時、
それ以降の写真はカラーになったようです。


私、よく「透けた眼」という表現をしてしまうのですが、
彼の写真も「透けた眼」で撮られているように感じました。



「透けた眼」というのは…
どういうのか、
「自分がそこにいない」という表現があっているのか。
自分はそこにいるんだけどそれを主張するわけでなく、
自分の意識だけがそこに飛んでいる感じ?



絵も、そういうものが好きだったりします。
(そうでなくても好きなのもあるけど)



客観的、俯瞰的ともいえるような、
俯瞰してるから時代が流れても色あせない、
どこかあきらめ、というか、
ノリきれない、
流行とかについていけない、
時代に冷めてる
普遍的なものを見ているともいえるかな


そういう感じであります。



図録にあった
「言葉がイメージを押しのけている」
というのが印象に残ってる。

喋りたくないときは、
こんな感じ。
でも今の時代これは否定されることが多いように思います。


違和感に素直に動いてみよう(違和感感じるものを受け入れない)
と決めて2年ほどたちますが
この違和感に従うとかなり損をするように思います…
が、とにかくもう少し続けてみるつもり。




しばらく忘れてた感覚を思い出させてくれた貴重な展覧会でした。




ほかにもいろいろあったけど、それはまた今度。




写真のお話でした。



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